責任は重い?

責任っていう言い方が、なぜかとても重いものを感じさせる。「何を選ぼうが私の自由であり、その選択の結果を100%受け入れる」ということが、「責任」という言葉の本来的な意味だと思える。つまり「自由」とも同義語的要素もある気がするのだが。

あ、そうか、、「ねばならない=義務感、使命感」を重ねるニュアンスで使う場合が多いから、重さを感じるのだろうな。責任と義務とは、本当は別個の言葉なはずなので、連動させなければ、もっとあたりまえな感じの、軽やかな言葉になりうると思うんだけど、どうだろう?

あれれ?こうなると、ゲシュタルト崩壊、、、自由と責任って、わざわざ言葉にするのも変なくらいの、存在そのものを表現する、あたりまえの言葉って感じがしてくる。そして、これまたわざわざ言葉にするのも変なくらいの2つで1セットな言葉といえないだろうか?

ふと思った。義務という言葉はいらんけど(そんなもん元よりないっていう感じ)責任と自由はいる(ってか、「ある」)。昔から時代と共に言葉も変遷してきたけど、これからは在り方として不自然な言葉は、ひょっとしたら淘汰されていくのかもしれない。概念がいらんようになれば、言葉もいらんもんね。あ、そうやって古語になっていくのかな?知らんけど。😎

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