私は、たまーに、ボンの部屋を掃除する。
部屋が恐ろしく散らかっているのを見てしまい、気分が悪くなってしまったときに、「自分のために」掃除する。
掃除して「あげる」発想はない。
掃除した方がいいよ…と思う時には、言う。
でも、そこに強要や強制はない。
彼なりに、散らかっているのがいやだと思えば、やるだろうと思っている。
私の感じる「散らかっている」とは次元が違うだけなので。
なので、私は、掃除すべきとは思っていない。
自分のために、そうする。
他人様には、「子供のために」掃除をしてあげるお母さんに映っているのかなって思う。
結果として、子供のためになっているかもだけど……いや、本当に息子のためを思うのなら、オカンが先にやってしまうより、ゴミ部屋になろうとも、黙って待ってあげてもいい☺️
だから、私は、はっきりと自覚して、「私のために」掃除する。
私が不快にならないために、掃除する。
おまえがやらねばならないのに私がやってあげている…なんて、しんでも言わない。笑
なんで、こんなことを書いているのかと言えば、
うそをひっくり返すため。
というか、本質的なあり方で、自然に過ごすため。
「子供のため」といってやってきた正義感や美徳感を外す。
つまり、うそ をなくす✨
うそ をつかないとは、ちょっとちがう。
うその「ない」在り方。
ここがわかっていないと、自分に嘘をついていることに気づけない。
子供のため という美しい響きに自身がころっと騙される。
子供のため という衣をきて、自分の本音を誤魔化す。
あたりまえにやっている人は、本音が麻痺してるからね。
ここでは、対子供というところで書いてみたけど、
実は、すべてに対して言える。
だれかを正そうなんて時はだいたい、相手のためなんかじゃないね😎
これが愛だと、しぬほど自信があれば言えばいい。
多くは、自分が不快だから、やめてほしいってだけ。
もちろん、そのこと自体は悪くない。
そこ(自分の本音)に気づいていないのが悪い。
そこに気づかず、相手が悪いことにして、相手のためを想うフリして正そうとするのがおぞましい。🤣
その傲慢さに気づけないのが、かなしい。
気づいて、本音に戻せばいいだけ。、
「私はそれが好きじゃないからやめてほしい」って言えばいい。
要するに、
自身で、「勝手なリクエスト」なのだと気づいていればいい。
わかってて言う分には、ストレスはない。
その時「これは、私のしゃしゃる筋合いではないな〜」とハッと大気づき✨する場合も、実は多いと思う。
その時こそ、ほんとうに福音✨✨
喜捨の瞬間✨
人を自由にさせることで、何よりも自分が自由になる。
好きに関わり、好きに引ける🎈
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他者を攻撃しているとき(たいていは心で)
ほんとうは、自分が不快なだけ。
攻撃している自分の醜さを直視したくないから、
相手が悪いってことにすると、感覚を麻痺させて逃げられる。
そんな心境だったりしますな。
世界規模の宗教戦争なんかも、根っこはこれに近い。
あれこれ複雑に屁理屈wをこねているだけで、感傷の観点からは、ほぼ同じカテゴリー。笑
攻撃することの良し悪しの話じゃないよ。
相手は悪くなくても、相手のことが不快で嫌いってのはあるし、これは感性の違いでしゃあないこと😆
そんな理不尽さを、自分も(他人と同じように)持っているんだな〜って自覚しているのが、上等って思う。
これがわかっているだけで、そこで足止めしないことを選べるやん。
まあ、かつて、じんましんになるほど味わったので🤣(=やる方もやられる方も)、このへんはすごーくわかるのだよ。
チミもだいじょうぶだぁ💕

