委ねる ということ
何かを食べると、眠くなることが多い。
好きなことをしているので、よほどマシではあるが、それでも眠くなる。
しょうがないので、床にざぶとんを並べて少しウトウトする。
先ほどの入眠際のウトウトの時、
どうしても起きて作業をしたくて、
(ああ、自分の思い通りに睡魔を操れたら!)と思いながら落ちていった。
これは、睡眠障害の私の、ずっと昔からの願いでもあった。
10分ほど眠って、意識がこっちに戻ってきてすぐ
(「眠り」も、本質的なところでコントロールされていることを信じた方がええんちゃうかな)
と、ふと思えた。
そして、少し気持ちが楽になった。
私が「思い通り」などしない方が、もっとうまくいくのではないかと。
何か、深いところの、本質的な「わたし」が(これ以上、画策するな)(これ以上、コントロールするな)と言ってくれているのかも?と思えた。
体を起こし、ここのところテーマだった(委ねる)ということを考えてみた。
ほんとうに「瞬間」来たものに「委ねたら」ええだけじゃないかと。
瞬間「来てくれた」という思いでいればいいのではないか。
睡魔は「来てくれた」。
いやだという思いは「来てくれた」。
それをいやだという思いも「来てくれた」。
まあええかとの思いは「来てくれた」。
尿意も「来てくれた」。
トイレにいこうという(思い)「来てくれた」。
この文章を書きたいという(思い)「来てくれた」。
指が動く「=来てくれた」。
瞬間瞬間、必要なものが、来てくれている。
瞬間瞬間、来てくれているものを、ただ受け取る。
それが、生?
いや、これは、生 だけではなく、死後も、おそらく、ある。
やむことなくある 動き。
「死」というのは、背景か?
そういう見方もできるだろう。
でも、死とは、生側の一つの暗喩として、私には感じられる。
生の状態の一つとして、
「動かない」というものの内にある動き──
……むしろ、着々と進行している動き。
これは、生といえないだろうか。
生が包括している動きの中の一つ。
あれ?生というより、命のことかも。
背景は死ではなく、命 の方だ。
それが、死に見えたとしても。
私は、こんなことをとりとめもなく考え巡らすが好きである。
まとまりなく、湧いてくるに任せる。
これもまた、委ねる ということだ。

